「スポーツを障害者の力に」 親子2代で思いつなぐ 東京パラ500日前

引用元:毎日新聞
「スポーツを障害者の力に」 親子2代で思いつなぐ 東京パラ500日前

 新型コロナウイルスの感染拡大の影響で延期された東京パラリンピックの日程は2021年8月24日~9月5日に決まり、11日で開幕まで500日。安全を取り戻した上での開催を目指し、「価値ある大会実現の一員になる」と語るのは、新競技バドミントンの医療責任者を務める中村太郎さん(59)=大分中村病院理事長=だ。1964年東京パラリンピックで日本選手団団長を務め、「日本のパラリンピックの父」と呼ばれた父裕(ゆたか)さん(故人)と同じ志で、障害者スポーツを支える。【岩壁峻】

 ◇「日本パラリンピックの父」の息子

 中村さんは前回の東京パラリンピック開催の約4年前の60年9月に生まれた。当時、国立別府病院(現国立病院機構別府医療センター)で整形外科科長だった裕さんは、脊髄(せきずい)を損傷した患者に先進的な治療をしていた英国のストーク・マンデビル病院に派遣されていたという。

 60年は、ローマで第1回パラリンピックが開催された年だ。寝たきりだった患者にスポーツを奨励したストーク・マンデビル病院の取り組みに触発された裕さんは帰国後、第2回パラリンピックとなる東京大会の開催へ尽力した。

 そんな裕さんの姿は、中村さんに影響を与えた。東京大会後の65年に社会福祉法人「太陽の家」(大分県別府市)を設立した裕さんは障害者の就労支援にも力を注ぎ、「障害のある人を自宅に連れてきて、『一緒に飯食うぞ』みたいなことは日常茶飯事でした」と中村さん。裕さんが提唱して75年に大分で初開催された極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック)の大会中は外国選手が自宅に寝泊まりしていた。

 ◇障害者スポーツの専門医増やして

 医者になるように勧めた裕さんの影響もあり、中村さんは岡山県の川崎医科大に進学し、86年に地元の大分医科大(現大分大)病院整形外科へ。「『難しい手術をしたい』というより、やっぱり障害者スポーツや障害者の社会復帰に興味があった」と振り返る。

 「父を継いでいる、という意識は、昔からさらさらないんですよ」と落ち着いた口調で言葉を紡ぐ中村さんだが、裕さんと同様に障害者スポーツとともに経歴を重ねてきた。パラリンピックでは00年シドニー、04年アテネ両大会で日本選手団のチームドクターを務め、現在も日本障がい者スポーツ学会常任理事など要職を担っている。

 夏季パラリンピックでは2度目の同一都市開催は東京が初となる。自国開催で注目度が高まるにつれ、裕さんのことに関する取材を受ける機会は増えたが、中村さんは「ありがたいけど、思い出話ばかりではしょうがない」と未来を見据える。その理由について、「64年当時は労働災害や交通事故による障害者が多く、スポーツをすることは福祉の手段としての側面が強かったが、今は違う。スポーツの持つ力で(障害者を)良い方向に導くことを考えるべきでは」と訴える。そのためには「(主要な)顔ぶれが数十年変わらない」という障害者スポーツの専門医を増やし、競技環境を整えることが必要だという。

 ◇1年延期 安全取り戻し価値ある大会に

 14年に障害者スポーツの所管が厚生労働省からオリンピックと同じ文部科学省(現在はスポーツ庁)に移ると、中村さんの医師としての意識も変わってきた。「父の時代のように障害がある人を元気づけるために大会に連れていくということではない。今度の東京パラリンピックで求められているのは救急医療。競技中に大きな事故があった時にドクターヘリでどこに運ぶかなど、まさに医者として厳しい判断が迫られる」。医療責任者としての重責を感じている。

 東京パラリンピックは思わぬ形で延期になった。中村さんは「世界中で多くの人が健康を損ねている状況では当然だと思う」と受け止めつつ、「十分に安全が担保された後に開催できれば、とても価値のある大会になる」。親子2代で半世紀あまりの時を超えて携わる「東京」を見据えた。