「もう終わりかな」と思ったフジカキペアが銀メダルを獲得できた理由

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スポーツファンの興奮と感動を生み出す祭典・オリンピック。この連載では、テレビにかじりついて応援した、あの時の名シーン、名勝負を振り返ります。

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 日本の女子バドミントンはかつて、国別対抗戦ユーバー杯で1966年から81年まで6大会で優勝5回、2位1回と高い実力を見せつけていた。しかし80年代半ばの中国チームが台頭すると、低迷期が続いた。そうした状況で、2012年ロンドン五輪女子ダブルスの藤井瑞希・垣岩令佳組の銀メダルは念願の快挙だった。

 バドミントンが五輪の正式競技となった1992年バルセロナ五輪で松野修二・松浦進二組の男子ダブルスが、2000年シドニー五輪で女子シングルスの水井泰子が、共に5位入賞を果たした。だが、それ以外は結果を出せない時期が続いた。特に04年アテネ五輪は、男女シングルス4名と男女ダブルス4組、混合ダブルス1組が出場したが、2回戦へ進んだのは女子シングルスの森かおりのみ。他はすべて初戦敗退。チームの全成績は1勝9敗という惨憺(さんさん)たる結果だった。

 このアテネの惨敗を機に日本バドミントン協会は、五輪や世界選手権で優勝し、「ダブルスの神様」とも称された韓国の朴柱奉(パク・ジュボン)氏をヘッドコーチに招へいし、強化に本腰を入れた。そこから、結果が出始めた。

 07年世界選手権の男女ダブルス銅メダル獲得を皮切りに、08年北京五輪は女子ダブルス4位と5位、男子ダブルス5位と3組が入賞。世界国別対抗戦である男子のトマス杯と女子のユーバー杯では、10年と12年は共に3位。日本は、強豪国の仲間入りを果たしたのだ。そうした中、藤井と垣岩は、11年の世界選手権3位で同じルネサスに所属する先輩のペア末綱聡子・前田美順組を上回る日本勢最上位の世界ランキング4位でロンドン五輪に臨んだ。

 五輪の試合形式はそれまで、全選手によるトーナメント方式だった。だが、ロンドン大会からは、予選リーグを行なって決勝トーナメントに進出する形式が採用された。16組出場のダブルスは4グループに分かれ、各グループ上位2組が決勝トーナメントに進む。初採用の形式で生じた各ペアの思惑の綾が、藤井と垣岩に味方することになった。

 B組の藤井・垣岩組は、3試合目の程文欣・簡毓瑾組(台湾)に敗れて2勝1敗となり勝敗では3組が並んだ。それでも藤井・垣岩は得失点差でインドをわずか1点上回り、2位で決勝トーナメント進出を果たした。

 だが、別の予選グループでは異変が起きていた。北京五輪優勝の於洋が王暁理と組んだ中国ペアは、五輪レース期間に出場したすべての大会でベスト4以上、ほとんどで優勝する世界ランキング1位の絶対的な優勝候補だった。予選リーグA組でも圧倒的な力を発揮し、2戦終了時点で韓国の鄭景銀・金ハナ組と共に決勝トーナメント進出を決めていた。

 両者の対決となった最終戦で於・王組は、準決勝で同じ中国の田卿・趙蕓蕾組との対戦を避けるため2位通過としようと、サーブをわざとネットにかけるようなプレーをした。一方、韓国の鄭・金組にも決勝トーナメントの組み合わせを考え、故意に負けようとするプレーが見られた。結果は、0対2で中国が敗れたが、試合後に「無気力試合」と判定され、両組共に失格となった。

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