恩師が語る桃田賢斗、福島が育てたやんちゃと人間味

引用元:日刊スポーツ
恩師が語る桃田賢斗、福島が育てたやんちゃと人間味

福島の思いも背負って金メダルへ-。マレーシアでの交通事故から練習復帰したバドミントン男子シングルス桃田賢斗(25=NTT東日本)は、11年3月11日、福島・富岡高1年時に東日本大震災で被災した。

【写真】富岡高校時代桃田を指導した、ふたば未来学園高校本多裕樹監督

転校する生徒もいる中、桃田は福島に残った。当時の恩師の本多裕樹監督(35=ふたば未来学園高)や猪苗代で生徒を受け入れたあるぱいんロッジの平山真オーナー(61)らが、桃田にエールを送った。

   ◇   ◇   ◇

現在休校となっている富岡高は震災当時のまま、立ち入り禁止となっている。校舎には「復校富高」の文字。入り口には桃田らの高校総体出場を祝う看板もそのままだ。震災で学校は閉鎖となった。学生寮も使えなくなり、バドミントン部は猪苗代のロッジに生活拠点を移すことが決まった。インドネシア遠征中だった桃田は「ここで頑張りますよ」と迷いなく福島に残った。授業は猪苗代高の教室を借り、近くの体育館で練習した。なじみのない地で不安もあった中、桃田は約2年間を猪苗代で過ごした。

本多監督 他校からの勧誘がある中、桃田が猪苗代を選んでくれて本当にうれしかった。(それまで)4年間やった仲間がいたのも大きかったのかな。

香川・三豊小時代から全国大会で活躍していた桃田を、当時のバドミントン部監督で現トナミ運輸コーチの大堀均氏が富岡に誘った。本多監督は桃田が中2の時に赴任。当時から技術はずばぬけていたが、中3で代表に呼ばれるようになってからは、やんちゃな性格に苦労したこともあった。

本多監督 体の使い方、ラケットワークは指導者よりもうまかった。ただ態度には難があった。代表ではチヤホヤされて怒る人もいない。帰って来たら、自分に対しても態度が変わったり、年上にも生意気に絡むようになっていた。

礼儀を教え、生活指導をするだけではダメだと考えた。

本多監督 寡黙で実直な子はトップになかなかなれない。世界に勝たせるとなったら、個性をつぶさずに指導するのは難しかった。

16年リオ五輪前、桃田は賭博問題で謹慎。1年後に復帰した。本多監督は当時の試合を見て辛くなったという。

本多監督 規制されすぎて何もせず、ただつなぐだけ。生き殺しだった。あんなプレーなら辞めさせた方がいいと思っていた。バドミントンを楽しむというスタイルが全然できていない。駆け引き、勝負勘、ファイティングスピリットをコート上に出すのが桃田。

復帰から1年。桃田らしさが出て勝ち始め、世界1位になった。やんちゃな部分も多いが、根は真っすぐな男。だからこそ金メダルを取ると信じる。

本多監督 国体で応援に来た民宿の方との別れ際に涙を見せた。感受性は強い。強気な自分を見せたい部分もあるが、あくまでパフォーマンス。根は人間的で負けず嫌いな気質がある。それがあるからこそ、土壇場で勝ってきた。

本多監督は現在、15年に新設されたふたば未来学園高で指導を行う。富岡高復活の話もあるが、バドミントン部がなくなる可能性もある。

本多監督 卒業したところは違うけど「チーム富岡」として原点はここだ、というのを作っていきたい。卒業生の活躍は自分にとっても生きがいになる。

交通事故を聞いて驚いたが、復帰してホッとしたという本多監督。卒業後も心配をかけ続けた教え子の金メダルを願いながら、第二の桃田誕生へ指導を続けている。【松熊洋介】

◆桃田賢斗(ももた・けんと)1994年(平6)9月1日、香川県三豊市生まれ。小2年からバドミントンを始める。福島・富岡高3年の12年世界ジュニア選手権で日本人初の優勝。16年4月に発覚した賭博問題で1年間出場停止。復帰後18年世界選手権で男子シングルス日本人初V。19年ワールドツアーで年間11勝を挙げ、東京五輪出場を確実にした。家族は両親と姉。175センチ、68キロ、A型。

○…桃田が震災後猪苗代で生活していた時に通っていた「まるいち食堂」のオーナー、笠間義幸さん(57)は桃田の復帰を知って「とにかく頑張ってほしい。五輪前に何かあるので、とにかくこれからは何事もなく無事に五輪を迎えてほしい」と胸の内を語った。毎週末は必ず来ていた桃田。仲間と談笑しながら、大好きなソースカツ丼を勢いよく食べていたという。実業団に入ってからも何度か訪れており、賭博問題から謹慎が明けた後も5~6人で来店。「2度とあんなことするなよ」と仲間に諭されながら、食事をしたこともあったという。金メダルについては「勝負事だからこればっかりは分からない」と言いながらも「力を最大限に発揮してくれたら」と期待する。