最年長は72歳 障害と年齢の壁越えて躍動するパラリンピアンの軌跡

引用元:毎日新聞
最年長は72歳  障害と年齢の壁越えて躍動するパラリンピアンの軌跡

 8月25日から9月6日に開催される予定の東京パラリンピック。初採用のテコンドーとバドミントンを加えた22競技539種目が実施され、史上最多4400人の選手たちが、熱戦を繰り広げる。

 パラリンピックは障害のあるトップアスリートが出場する国際大会。1964年に第2回大会を開催している東京は、夏季大会としては初めて同一都市で2回目の開催となる。出場者は視覚を含む身体障害者が中心で、水泳など知的障害者が出られる競技もある。

 2016年リオデジャネイロ五輪の日本人メダリストの平均年齢は24歳。一方、パラリンピックのリオ大会では33歳と選手年齢が高いのも特徴の一つだ。年齢を重ねても、国の代表として活躍する選手は「生涯スポーツ」を体現しているといえる。前回大会から56年、当時の若者、子ども、赤ちゃんたちが年齢を重ねても、日々の努力で競技を続け、東京大会出場を目指している。障害を越え、年齢の壁も越えて躍動する選手たちを取材した。

 ◇長渕剛さんの声に救われ 三浦浩さん(55)=パワーリフティング

 「年だからと言って、あきらめる人たちにアピールしたい」。パワーリフティングの49キロ級で東京パラリンピック出場を目指す三浦浩さん(55歳・東京ビッグサイト)は「できないをできるに変える」が信条だ。

 フリーランスのライブスタッフとして働いていた2002年、フォークリフトが倒れる事故で脊髄(せきずい)を損傷し、車いす生活になった。「歩けない」と宣告された時、思い浮かんだのは妻と当時小学生の娘たちの顔。これからの生活、収入の不安を抱える中で、「次のライブよろしくな」と声をかけてくれたのが歌手の長渕剛さんだった。その言葉に救われ、車いすで「できるのか」という不安を覚えるより、「何ができて、何が足りないか」をまず考えた。その後は長渕さんを支える専属スタッフとして、横浜スタジアムでのライブや桜島でのオールナイトライブなど、競技に専念するまでの約10年、仕事に汗を流したことが大きな自信になったという。

 競技との出会いは04年。アテネパラリンピックで重いバーベルを持ち上げる選手に目が留まった。始めた理由は「400キロ(フォークリフト)に負けたから、リベンジじゃないけど、重いものに勝ちたいと思った」と語る。ウエートトレーニングはやればやるだけ体つきが変わり、成績も伸びる。重いものに挑戦することに魅力を感じた。

 三浦さんは東京パラリンピックが開かれた1964年に生まれ、パワーリフティングはこの大会から始まった。「そんな選手、俺しかいないでしょ。運命的だよ」と笑う。衰えは感じるが、年齢の壁は感じていない。常に試行錯誤し、それも楽しむ。そして、「生涯現役」として体が動く限り続けたい。「パラリンピックに出られたら、前回大会に生まれた男が活躍できることをアピールしたい」。「年だから」とは言わない。あきらめないで、やり続ける。【佐々木順一】

 ◇5大会連続目指すレジェンド 別所キミヱさん(72)=卓球

 2016年リオデジャネイロ・パラリンピックに日本選手団最年長で出場した別所キミヱさん(72)は、5大会連続出場を目指す卓球界のレジェンドだ。

 別所さんは42歳でがんのため車いす生活になり、リハビリで始めた卓球にのめり込んだ。髪や車いすに施したトレードマークのチョウの飾りは協力を受ける卓球用品メーカー「バタフライ」によるもの。「幸せを呼ぶとも聞いてあやかっています」と話し、海外選手からは「バタフライマダム」とも称される。

 一昨年から交通事故に相次いで遭い、病気にも悩まされた。「このままでは東京大会への出場は無理」と週6日のペースで続ける練習では狙ったコースへのショットやブロックなどさまざまな課題に取り組む。

 試合では孫のような年齢の選手と対戦することも珍しくないが、「年齢差を感じたことは一回もない」。「まだまだできることがある」とラケットを握り続ける。【久保玲】

 ◇左半身だけで馬操る元調教助手 宮路満英さん(62)=馬術

 山梨県北杜市小淵沢の乗馬クラブ「リファイン・エクインアカデミー」。愛馬オロバスにまたがり練習するのはパラリンピックの馬術競技で2大会連続出場を目指す宮路満英さん(62)=セールスフォース・ドットコム。

 パラ馬術では人馬一体の正確性や芸術性を競う「馬場馬術」が行われ、宮路さんの障害クラスは5段階ある中、2番目に重い障害に当たるグレード2。2016年のリオデジャネイロ大会では唯一の日本代表だった。

 23歳の時に日本中央競馬会の調教助手になり、G1を制覇した名馬の調教にも携わった。しかし、05年7月に脳卒中で倒れ、右半身のまひと高次脳機能障害の後遺症を負い、馬に携わるのは諦めていた。転機は「元の仕事でやっていたことをするのがリハビリに良い」という理学療法士の言葉だった。再び馬とふれあい始めると、徐々に言葉も回復し、乗馬もできるようになった。11年から本格的に競技に取り組み始め、今も国内でコーチを務めるパラ馬術指導の第一人者、大木道子さんと出会い馬術にのめり込んだ。

 通常は左右の手、腕、臀部(でんぶ)、脚を使い操作をするが、右半身が使えない宮路さんは左半身だけを頼りに馬を操る。そのため馬に正確に指示を出すのが難しい。60歳を境に馬に乗る恐怖心も芽生え始めた。それでも「とにかく馬が好き」だ。

 今年2月、オランダでの大会で自己最高点を記録した。記憶障害のため、代わりに経路の指示を出すコマンダー役の妻裕美子さんは「年齢いっててもちょっとずつ成長している。もっとうまくなると思う」。暑い日も寒い日も地味な反復練習を繰り返してここまで来た。コーチの大木さんは言う。「馬術で人は良き司令塔であればよくて、年齢は関係ない」【宮間俊樹】

 ◇マグロ漁師の経験力に 大井利江さん(71)=陸上男子・砲丸投げ

 「全身まひになるのではないかと今でも恐怖を感じる。これ以上妻に負担をかけたくないと思い、体を動かし競技を続けてきた」

 そう話すのは5大会連続出場を目指すパラ陸上男子・砲丸投げの大井利江さん(71)。日常生活で介助者の力が欠かせない。

 マグロ漁に従事していた39歳の時、操業中に重さ20キロの漁具が頭に落下。頸髄(けいずい)を損傷し下半身はまひして手や腕も自由に動かせなくなり、リンゴを握りつぶせたという握力はほぼ0になった。リハビリで始めた水泳をきっかけにパラリンピックを知り、陸上競技に出合ったのは50歳だった。

 マグロを水槽に投げ入れる要領で円盤を投げ、初出場の2004年のアテネ大会では円盤投げで銀メダル。その後も北京大会で銅メダルを獲得した。10位に終わったロンドン大会後、次回16年のリオデジャネイロ大会では円盤投げで自身の障害クラスが不採用となり、一時は引退を決意した。しかし、ほどなく20年東京大会開催が決まったことで、「地元の人たちにも見に来てもらって恩返しをしたい」と東京大会出場を目指して砲丸投げに転向した。記録は年々伸び、体の衰えは感じない。「マイペースに。無理のないように楽しみながら練習するのが長続きの秘訣(ひけつ)」と笑顔を見せた。【宮間俊樹】

 ◇医師も驚く技と精神力 仲喜嗣さん(59)=アーチェリー

 仲喜嗣(よしつぐ)さん(59)は31歳の時に全身の筋力が低下する進行性の難病「トリプルA症候群」を発症し、両手足の機能障害が残った。昔からスポーツが好きだったこともあり、陸上や水泳などに挑戦し、選んだのはアーチェリー。健常者も障がい者も同じ土俵で互角に戦えるところに魅力を感じたからだ。46歳で競技を始め、初出場となる東京パラリンピックは還暦で迎える。

 アーチェリーは繊細な技術と強固な精神力が求められ、心も体も強くなったと感じている。医師からは「この状態で競技ができるのは医学では説明できない」と驚かれるという。年を重ね、トレーニングの成果が出にくくなり、疲れやすくなったと感じるが、試合ではこれまでの経験と技術でカバーし、「最後まで気持ちでは誰にも負けない」という強い意志で結果を積み重ねてきた。国際大会に出られるようになってからは行動範囲も広がり、美しい景色に感動し、海外の選手との交流も増え、「アーチェリーは私の命を救ってくれた」と語る。

 東京ではセンターポールに日の丸を掲げ、同じような難病や障害で苦しんでいる人に目標を持って前向きに生きることの素晴らしさを伝えたい。そして、いつも支えてくれている妻の奈生美さん(52)に感謝の言葉を伝えたい。【幾島健太郎】