【あの日の五輪】ロボットのように体が硬直…1992年の陣内貴美子(上)

引用元:スポーツ報知
【あの日の五輪】ロボットのように体が硬直…1992年の陣内貴美子(上)

 バドミントン男女が正式種目入りしたのは、平成最初の夏季五輪となった92年バルセロナ大会。スポーツ報知で評論を担当する陣内貴美子氏(55)は、森久子氏(55)とのペアで女子ダブルスに出場した。誰もが初出場という特別な五輪で感じた世界選手権との緊張感の違いや、出場権争いのポイントレースを戦う難しさ。さらに、現代表チームのメダルラッシュが次世代につながる意義を語った。(取材・構成=細野 友司)

 92年7月25日。開会式の入場行進は、言いしれぬ高揚感に包まれる舞台だった。

 「想像もつかなかったから。これまでスポーツをやっていても、五輪は『テレビで見て応援するもの』。それが柔道のヤワラちゃん(田村亮子、現姓谷)や(バレーの)中田久美さんと同じ制服を着て行進しているんだ、って。いつも見ていた人と一緒に歩いている。本当に壮観でした」

 日の丸を背負う覚悟を分かち合い、共闘する。大会のハイライトの一つが、競泳女子の岩崎恭子が史上最年少14歳で手にした金メダル。選手村での一体感も、忘れられない思い出だ。

 「選手村は3LDKのマンションでした。エアコンはなくて、各部屋で扇風機を借りていたんです。からっとした気候だから窓を開けていたけど、恭子ちゃんが金メダルをとった時(上下階の)どの部屋からも『うわぁ~』って歓声が起こった。拍手したり万歳したりして、まさに『ONE TEAM』ですよね。試合に行く前の選手村で偶然恭子ちゃんと会って、パワーをもらえるように握手してもらったのも覚えています」

 世界選手権や国際ツアーで経験を重ね、28歳で臨んだ大会。かつてないほどの緊張感に襲われた。

 「五輪のマークが、こんなに体を硬直させるのかと。これまでの試合は、緊張が大きくても、体育館に入ればスッと冷静になっていた。でも、五輪だけは体育館に入場する時、ロボットのように右手と右足が同時に前に出て歩いているんじゃないか、という感覚でしたね」

 試合直前、3分間の練習でも異様な感覚は続いた。ただ、それは自分だけではない。誰もが初出場。女子シングルスで初代五輪女王となったスシ・スサンティ(インドネシア)さえも、手が震えていた。バドミントンが五輪競技として歴史的一歩を踏み出したからこその、特別な空気感だった。

 「3分間の練習はライトの位置や風の向き、観客の服の色あいなども見るんです。白っぽいと、シャトルが見えづらいなど。ただ、あの時はシャトルが飛ぶか飛ばないのかさえ分からなかった。サーブを打つときも、ラケットが飛んでしまいそうなくらい、手に汗をかいていました。でも、隣のコートを見たら、スシ・スサンティがサーブを出す手が震えていたんです。他にも空振りする選手がいたり、ダブルスのペア同士がぶつかったり。とにかく異様で皆が緊張していました」

 メダルを目標に掲げたが、結果は2回戦敗退。それでも、最初で最後の挑戦を終えると確かな思いが胸の中に湧き上がってきた。

 「私はメダルを取れると思っていたし、取るつもりだった。ワンチャンスに懸けるしかないから余計に緊張したのかもしれないけど、緊張したから負けたんじゃない。やっぱりメダルを取る実力がなかったというのが試合後の感情だった。強い選手は何だかんだ言っても、勝ち上がっていくから」

 競技生活の集大成に唯一無二の大舞台を経験し、94年に第一線を退いた後はスポーツキャスターとして第二の人生を踏み出した。実は五輪2年前の90年シーズン、一度は現役引退を考えていた。=敬称略、つづく=

 ◆陣内 貴美子(じんない・きみこ)1964年3月12日、熊本・八代市生まれ。55歳。熊本中央女高(現・熊本中央高)、サントリーを経てヨネックス所属。日本代表には16歳でデビュー。92年バルセロナ五輪代表。94年に第一線を退いた後は、スポーツキャスターとして活躍している。夫は元プロ野球投手で広島、日本ハム、巨人で活躍した金石昭人氏。 報知新聞社